プリヲタ法学部生のブログ

プリキュアについて法学、政治学などの観点からの考察をするブログです。時折プリキュアと関係のないことについても書くかもです。

スタプリ映画をスピノザ『エチカ』で解釈してみた


Hatena

序章:はじめに

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(画像出典:2019映画スター☆トゥインクルプリキュア製作委員会 「映画スター☆トゥインクルプリキュア--星のうたに想いをこめて--」

0-1:惑星という名の「神」ユーマ

 中世のオランダに、スピノザという哲学者がいました。彼は、我々の世界そのものが神であるという考え(汎神論)を提唱した人物です。

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 さて、世界というと何を思い浮かべるでしょうか。スピノザの想定する世界とは、宇宙すらも超越する、「存在」という概念そのもの、「存在」という現象そのもののことを言います。全ての宇宙と、そこで発生するあらゆる存在そのものをスピノザは世界=神であると定義しました。

同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類によって有限であると言われる。ある物体は、我々が常により大なるほかのぶったいを考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。

実体とは、(中略)、その概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。(筆者注:つまりスピノザのいう「有限」にあてはまらない、つまり「無限」なものが「実体」であるということです。)

神とは、絶対的に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。

神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられない。

 つまりスピノザは、我々の存在する宇宙や次元を含む、全宇宙・全次元、そしてそこに存在する全生命・全物質・全概念・全思想を自らの属性(一部)として包括する無限な実体=自然を神として定義したのです。

すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられない(第1章定理15)。

 このスピノザの定義に厳密に従えば、惑星は到底神であるとは言えません。惑星は宇宙や恒星、他の惑星など他の概念によって定義される有限な物体に過ぎないからです。

 また、スピノザは、神に人間と同じような人格があることを重ねて否定します。

神が人間のように物体(身体)と精神から成り・感情に支配される、と想像する人々がある。(中略)物体とは長さ・幅・深さを有しある一定の形状に限定された量をいうのであるが、神すなわち絶対に無限な実体についてそうしたことを言うほど不条理なことはありえない(第1部定理15備考)。

もし知性が神の本性に属するとしたら、その知性は本性上、我々の知性のごとく、その対象があってあとからこれを認識したり(大抵の人々が主張するように)、あるいはその対象と同時にあったりすることができないであろう。

 このような定義にてらせば、人格を持ち有限なユーマは、到底スピノザの神とは言えないことになります。にもかかわらず、私はここであえて惑星=ユーマをスピノザのいう神と類似した存在、すなわち「神」と定義してみようと思うのです。それは、スピノザの神と惑星という物体には、生物の視点から見た時に、次のような共通点が見出せるからです。

 惑星は、そこで生活する者にとって、特に宇宙へ出る術を持たない生物にとって、世界そのものです。

 惑星が意思を有しているかどうか、意思を有しているとして、どのような意図を有しているかにかかわらず、気候を変動させ、災害を誘発することで、生物の生殺与奪を握ることができます。宇宙を知らない生物にとって、あるいは宇宙に出られない生物にとって、いや宇宙に出られる生物であってすら、星の気まぐれに抗うことは不可能でしょう。そもそも、抗うという発想すら出てこないかもしれません。

 一方、神は無限の恵みを与えてくれる存在でもあります。

 天然資源はもちろんのこと、空気、天気、光、適当な温度といった公共財も、惑星の存在なしにはありえない物であり、私たちちっぽけな生物からみれば、これらはほとんど無限な存在にみえます。

 そして、神は私たちを構成する存在でもあります。

 そもそも、私たちの身体を構成する物質も、もとをただせば惑星の物質で、私たちは皆惑星の一部を構成する存在であると言い換えることができるでしょう。

 以上のように考えると、生物から見れば、惑星はスピノザ的な神とほとんど同じであると認識(錯覚)されるのではないでしょうか。

 このように、惑星=ユーマ=「神」と定義すると、この物語は意思を持つはずのなかった惑星=世界がプリキュアと奇跡的な出会いを果たし、夢を持った物語といえるのではないでしょうか。

 そこで、この記事ではスピノザの『エチカ』に著された概念や思想を用いながら、①ユーマの感情がどのように変化したか、②この映画で発生した奇跡とはどのようなものか、③その結果、ユーマにはどのような未来が待っていると予想できるか、について解釈していきたいと思います。

0-2:本記事の構成

 第1章では、本稿で用いる概念や用語について理解していただくためにスピノザの考え方について簡単な説明をします。第2章では、適宜『エチカ』の記述を参照しながら、ユーマに生じた感情の変化について解釈を試みます。第3章では、これまでの議論を踏まえて、私が考えるこの映画で私達が目撃した奇跡についての解釈とユーマの未来に期待する事について述べます。

0-3:注意事項
  1. この記事は「映画スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて」のネタバレを多分に含みます。
  2. 本記事中“〇〇”と記載される言葉は、『エチカ』で用いられている意味で用いています。私達が普段使用する意味とは異なる場合があるのでご注意ください。
  3. 筆者は哲学を専攻しているわけでも、スピノザの研究者でもありません。スピノザの記述を誤読していることも十分考えられます。その点、了解しておいていただけると幸いです。

 

 

第1章:スピノザの精神と感情についての考え方

1-1:身体と精神の性質

まず、スピノザは身体を外部の刺激によって変状する物体であると考えました(第2部要請2、3、4)。そして、自己の身体がどのように変状したか認識する働きこそが精神であると定義しました(第2部定理13)。そこから、スピノザは人間の精神には重大な制約があることを指摘します。それは、人間精神は外部からの刺激による身体の変状がなければ、自らの身体がどのような状態にあるか認識することはできず(第2部定理19)、外部の刺激による身体の変状によってしか外部の物体が現実に存在することを知ることができない(第2部定理26)ということです。

 例えば、私達は神経、ホルモン、胃といった身体の器官や内部の物質が変化することによって、はじめて空腹であると自覚することができます。これらの器官や物質が何らかの理由により変化しなければ、空腹を知覚できなくなってしまいます。

 また、私達が外部を認識する五感という機能も目・耳・舌・鼻・皮膚などの変状に依存しており、これらの器官に刺激がなされなければ、外部にある物体を知ることはできません。これらの器官が働かない細菌やウイルスの存在を私達が知覚できないことからもおわかりいただけるでしょう。

 これを突き詰めて考えていくと、私達は様々な事を経験ないし学習し、身体を変状させ、そのことを記憶していく方法でしか世界のこと、ひいては自分のことを知ることができないということになります。

「ララがおにぎりを食べるまで、おにぎりという物体が美味しいということを理解できず、またおにぎりを美味しいと感じる自分を知ることができなかった。」という例は、このことを示す良い例であるように思われます。

この帰結としてスピノザは身体と精神は同一のものであると結論づけました(第3部定理13備考)。

1-2:感情は身体の変状

スピノザは感情も前述した身体変状の一つであると考えました。つまり、感情も自ずから生まれるものではなく、外部からの刺激があってはじめて生じるものであるとみなしたのです。

感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状(刺激状態)、また同時にそうした変状の観念であると解する(第3部定義3)。

そして、身体の活動能力を増大させ、私達をより大なる完全性に移行させる(生きやすい状態になる)身体の変状が“喜び”であり、反対に私達をより小なる完全性に移行させる(生きにくい状態になる)身体の変状が“悲しみ”であると定義しました(第3部定理11備考)。

また、人間は自らの存在(生命)を維持しようとする性質を有しており(生物学でいうところの恒常性)、その働きのうち精神が知覚できるものを欲望であると定義しました(第3部定理9備考)。

スピノザは人間の諸感情は喜び・悲しみ・欲望の3つの感情から生じるものである考えました(第3部定理11備考)。

1-3:まとめ

以上長々とスピノザの精神や感情についての考え方を説明してきましたが、重要な事項として次の3点にまとめられます。

  1. 外部からの刺激がなければ、私達は自分の身体の状況(有している感情も含む)を知ることができない。∴生まれながらにして自分が持つ感情を知っているわけではない。
  2. 感情は外部の刺激によって生じる身体変状の1種である。
  3. 感情は喜び・悲しみ・欲望の3種類で説明できる。・//喜び=生命活動を促進する身体変状・悲しみ=生命活動を阻害する身体変状・欲望=生命活動を維持しようとする働き(恒常性)

この3点を踏まえて第2章を読んでいただけると幸いです。

第2章:映画本編の解釈

2-1:他者の心を知らないユーマ

 映画の序盤、偶然、ララとひかる達に出会い、ひかるに懐いたユーマがララと反目するところから始まります。

 ユーマとひかるが出会ってから、ユーマはひかるとララに対してどのような感情を有していたのでしょうか。

 まず、ひかるに対してユーマは“好感”を持っていたと考えられます。自由に動き回りたいユーマの行動を制限せずまた自分にとって心地よいと感じられるミラクルスターライトを持つ相手に対して喜びを感じたからです。そしてひかるがふとつぶやいた「沖縄」という場所に行ってみると、そこにはユーマの好奇心を刺激する光景が広がっていたのです。ユーマのひかるに対する“好感”はますます強まったでしょう。

ただ、ユーマがひかるを自らと同じ感情を有する存在とみなしていたとは思われません。だからこそ、ユーマがひかるに対して有していた感情は“好感”であると考えます。

好感とは偶然によって喜びの原因になるようなある物の観念を伴った喜びである(第3章感情定義8)

つまり、ユーマはこの時点においてはひかるを自らに対して好ましい動きをしてくれる道具的な存在とみなしていたように思われるのです。第一次反抗期(だだこね期)を経ておらず、両親にも自分とは異なる人格があることを気がついていない幼児近い状況といえるのではないでしょうか。

この段階で、ユーマがひかるにとって好ましい行動をしていたとしても、それはおもちゃのスイッチを押して喜んでいる幼児のように、その物が自らにとって好ましい働きをする動作を行なっているだけで、相手のことを喜ばせることを目的とした行動ではないのです

 一方、ララがユーマに対して初めて抱いた感情は警戒、すなわち“恐怖”でした。

恐怖とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生じる不確かな悲しみである(第3部付録13)。

ユーマがララから受け取った感情が“恐怖”の感情であったことは、ユーマのララに対する印象を決定的に悪化させました。以降、ユーマはララに対して冷淡な態度をとり続けます。そして、運悪くララがユーマに対して注意・叱責する場面が続いたこともあって、ユーマのララに対する印象は悪化したままでした。

 一方ララは、ユーマがひかるに懐いて以降、ユーマに対する“恐怖”は失われていきました。むしろ、ユーマの能力に興味を示していましたし、ひかるに追随する形であるとはいえユーマの起こすワープ現象を楽しんでいました。とはいえ、ララは自らも流浪の宇宙人であり、宇宙法を叩き込まれてきました。そして、異星で生活することの困難さや、自らが宇宙人であるとバレたらどうなるか、その“恐怖”を身をもって体験しているのです(テレビ本編13話参照)。このような経験から、ユーマに同じ“恐怖”を味わせたくないと思い、ユーマの行動に神経質になっていたのです。つまり、ララはユーマを同じ宇宙を生きる仲間とみなし、ユーマの“悲しみ”に共感しているがゆえの行動なのです。

 しかし、ユーマはまだララはもちろん、他者にも自分と同じ精神(心)があることに気がついていません。したがって、この段階では、ユーマにとってララは不快な物に過ぎず、相手の心を慮る対象ではありませんでした。

我々が太陽をこれほど近いものとして表象するのは、我々が太陽の真の距離を知らないからではなく、我々の身体の変状(刺激状態)は身体自身が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本質を含んでいるからである。(定理35備考)

自然の中で我々は人間のほかに、その物の精神を我々が楽しみうるような、また、我々がその物と友情あるいはその他の種類の交際を結びうるような、そうしたいかなる個物も知らない。(第4部付録26項より)

 スピノザは、私達がある物に対して誤った表象(≒認識)抱いた場合、その表象に従って身体は変状する(感情が形成される)と指摘しました。これは効果があると思い込んでいる薬を飲むと、効果の実際にかかわらず、病気が治ってしまうことがあります(プラセボ効果)のように現実に観測されている法則です。したがって、ユーマがララを心なき存在とみなしていると、ユーマがララに対して抱く感情は、人ではない物ないし現象に対するそれと大差ないものになったと思われます(これはひかるについても同様のことがいえます。)。ユーマにとって、ララは自らを不快にさせる現象に過ぎず、相手の精神(心)に興味を持ち、喜びや悲しみを与える対象であると感じていなかったのです。

2-2:ララが持つ精神の発見、愛の芽生え

 そんなユーマが、ララにも精神があり、自分と同じ感情を持つ存在だと気がつくきっかけになったのが、ララの涙と「流れ星の歌」でした。

 まず、ユーマにとって「ララが泣く」という事実が判明したことは衝撃的な出来事でした。ユーマはこの時、ララが自分の行動によって悲しんでいる、すなわち感情を有しているということを発見したのです。

同時にユーマは、自分が他者(ララ)を“愛”すること、他者(ララ)の悲しみが自らの“悲しみ”になるということを知覚するに至ったのです。

愛とは外部の原因の観念を伴った喜びに他ならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない(第3部定理13備考)。

もしある人が他の人々を喜びに刺激すると表象するある事をなしたならば、その人は喜びに刺激されかつそれとともに自分自身をその喜びの原因として意識するであろう、すなわち自分自身を喜びをもって観想するであろう。これに反してもし他の人々を悲しみに刺激すると表象するある事をなしたならば、その人は反対に自分自身を悲しみをもって観想するであろう(定理30)。

初めての経験にどうしたらいいかわからず、うろたえ、泣き出してしまうユーマに対して、ララはユーマが好きな歌を歌うことによって落ち着かせようと試みます。ユーマは、ララが自らの好きな歌を、自分を“喜ばせる”ために、歌うことを表象することによって、ララが自らを“愛している”ことを知覚し、またそのことがいかに自らにとって、大きな“喜び”になることを知ったのです。

 この発見こそが、ユーマ自身とユーマという星に生まれるかもしれない生物にとって、とてつもない奇跡なのです。この点については後述させていただきます。

 ララと心を通じあったユーマは、3人で地球をめぐる旅に出ます。その過程で、ユーマは地球の自然が持つエネルギーや美しさを知りました。そして、その記憶はララやひかると一緒に巡ったという事実も相まって、地球の自然はユーマにとって、“喜び”の感情とともに記憶されたはずです。そして、自分の“愛する”ひかるとララが“喜ばせる”ために、こんな夢(スピノザ風にいえば“希望”)を抱いたのです。

「私で(私の星で)、こんな光景をララたちに見せてあげたい。」と。

2-3:バーンの誤りとユーマの憎しみ

 そして、宇宙ハンターの地球到達とともに物語は急展開します。プリキュアとハンターとの戦い、ミラクルライトによる勝利を経て、ララたちに真実がもたらされます。アン警部補に宇宙への旅立ちを促されるユーマ、ユーマがララによる涙の制止にもかかわらず、アンの元へ向かったのは・・・。

 しかし、ユーマは捕まってしまい、極めて強い悪意を受け、暗黒の惑星に変貌してしまいます。その原理は不明ですが、ユーマが初めて遭遇した極めて強い悪意に対して反応を示したことは間違いありません。

 さてここで宇宙ハンター・バーンは「守ろうが奪おうがこいつ(ユーマ)にとっては変わらない」という主張しました。後にユーマとの別れを拒んだことをララに自責させる原因になったと思われる主張です。

 バーンの考え方は、ユーマに精神が存在しない、あるいは存在しても考慮するほどの価値がないと主張するものです。これと似た問題についてスピノザは興味深い言及をしています。

いわゆる非理性的動物の感情(というのは我々は精神の起源を識った以上は動物が感覚を有することを決して疑いえない。)は人間の感情と、ちょうど動物の本性が人間の本性と異なるだけ異なっているということになる(定理57備考)

各自の権利は各自の徳ないし能力によって規定されるのだから、人間は動物が人間に対して有する権利よりはるかに大なる権利を動物に対して有するのである。しかし、私は動物が感覚を有することを否定するのではない。ただ、我々がそのため、我々の利益を計ったり、動物を意のままに利用したり、我々に最も都合がいいように彼らを取り扱ったりすることは許されない、ということを私は否定するのである。実に彼らは本性上我々と一致しないし、また彼らの感情は人間の感情と本性上異なるからである(第4部定理37備考1)

 非常に、まわりくどい言い回しをしていますが、要するにスピノザは、「動物は感情を持っているけれど、人間と動物は全く違うのだから、人間が真に動物のことを思いやるなど不可能だし、その必要もない。」と述べているわけです。

 私たち人間が、害虫を殺すことを躊躇しない(人によりますが)のは、まさに我々にとって、害虫が人間と全く異なる有害な存在だからと言えるでしょう。人間は害虫の精神を理解することはできないし、その反対もまた然りです。したがって、私達は害虫の心情に配慮する必要性を感じず、ただ自らの利害に従ってその生命を奪うことに躊躇しないのです。バーンの主張に通じるものがある言葉であるように思われます。

 しかし、ユーマはそこまで我々と“異なる”存在ではありませんでした。ララの感情がどのように変化したか理解して、その変化に一喜一憂していました。また、ララ達もユーマが私達に理解できる感情を有していることに気がつくことができていました。そうするとユーマは我々がいかようにでも扱っていい動物ではなく、互いの精神に影響を与えあう関係に立ちうる存在でした。つまり先述した第4部付録26項の定理があてはまる対象だったのです。にもかかわらず、バーンはユーマをスタードロップという宝“物”としかみなしていなかったために、ユーマの特殊さに気がつくことができなかったのです。この視野狭窄がユーマに“憎悪”を生じさせることになります。

精神は身体の活動能力を減少しあるいは阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める(第3部定理13)。この帰結として、精神は自己の能力ならびに身体の能力を減少しあるいは阻害するものを表象することを厭うことになる(同系)。

我々は(中略)悲しみをもたらすと我々の表象する全てのものを遠ざけあるいは破壊しようと努める(第3部定理28)

ある人を憎むとはある人を悲しみの原因として表象することである。したがって(この部の定理28より)ある人を憎む者はその人を遠ざけあるいは破壊しようと努めるであろう(定理39証明)。

バーンの認識に反しユーマは、宇宙ハンター達や他のハンターたちが自分を害する存在、すなわち“憎む”べき存在であると“表象=理解”できてしまいました。彼らを憎み、彼らを排除するために暴走するしかなくなってしまったのです。 

2-4:ユーマの告白、そして別れ

 大勢の宇宙ハンター、すなわち“憎しみ”の対象を前にして、完全にユーマの精神は“憎しみ”に支配されてしまいました。そんなユーマにララとひかるは、自分達がユーマを“愛している”こと、ユーマの“喜び”を願っていることを伝えるために、ユーマとララの“愛”を象徴する歌を届けます。この“愛”によってもたらされた“喜び”がユーマの“憎しみ”を凌駕したのです。

感情はそれと反対のかつ強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもない(第4部定理7)。

憎しみを超える喜びをユーマが享受した時、ユーマは自分が生きる意味、すなわち自分にとって最高の“喜び”がなんであるかはっきりと自覚したのでしょう。それはララとひかるが届けてくれた“喜び”を誰かに届けられる存在になることだったのではないでしょうか。そのために、地球のような“愛すべき”物で満ち溢れた惑星になること、これこそがユーマの見つけた夢でした。

 しかし、そのためにはユーマは今度こそ惑星として独り立ちしなければなりません。そしてユーマがこの夢を真に叶える姿をララ達は見ることは叶わないでしょう。その夢が叶うのは、現代科学の常識で考えれば、ララ達の寿命が尽きたはるか後のことになるからです。

 だからこそ、ユーマはララに自分の思い・願いを伝えなければならなかったのです。

ララのおかげで夢が見つかったということ、そのことを深く感謝していること、ララの喜びがユーマの喜びであり、ララにとってもそうだったらとても嬉しいということを。

 ララ達の思いとシンクロするように紡がられるTwinkle Starsの歌、歌が持つ魔法の力で言葉では伝えきれないユーマとララの思いが確かに共有されたのです。

徳に従うおのおの人は自己に求める善を他の人々のためにも欲するであろう(第4部定理37)。

2-5:ユーマのスターカラーペン

最後にユーマはスターカラーペンをララに託してプリキュア達と別れます。ララはこのペンを「道しるべ」と捉えていました。それは、単に惑星ユーマへの道しるべにとどまるものではないと思います。このペンはユーマがララに託した夢の証なのではないでしょうか。このペンダントは長い時を超えて旅をして、ララやひかるの意思をつなぐ者達にわたって、立派に成長したユーマに導くための鍵ではないのかと思うのです。

例え、ユーマが真に夢を叶えた姿をララに見せることは叶わなくても、いつかユーマから生まれた者たちとサマーン星人や地球人が出会い、愛を育むこと。

そういう“希望”をユーマはララに託したのではないでしょうか。

希望とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生じる不確かな喜びである(第3章感情定義12)

第3章:ユーマに起こった奇跡とユーマの今後について

 ここまでスピノザのエチカを参照しながら、ユーマがどのようにララを他者として認識し、愛を抱き、夢を得たか解釈してきました。

 この映画で私達が目撃した奇跡は以下の3点に集約できます。

①ユーマが自らに“喜び”という感情が存在することを自覚できたこと

②さらに一歩進んで“愛”という感情の存在を自覚できたこと

③ララとひかるが“愛”の対象になった結果、自らの星に生まれる生物もまた“愛”する対象になったこと

特に③の奇跡は、遠い将来ユーマに生まれるであろう生物にとって極めて重要な意味を持ちます。序章で述べたように、その惑星に生きる者にとって、惑星は“神”に匹敵する存在です。生物の全ては惑星から生じるとともに、惑星が起こす気候変動によって容易に生命を奪われる存在です。ユーマは「神」として、自分の星に生きる生物に対して、このような絶対的な権能を手に入れることになるのです。

 しかし、ユーマは「愛」という感情を知っています。そして自らから生じるものを“愛する”ことを欲するはずです。夢を叶えるために。

 遠い遠い未来、一人前の美しい惑星になったユーマは、自らが愛する子ども達(生物)から、プリキュアが誕生する瞬間を目撃するのかもしれない。そして、なララやひかると過ごした奇跡の日々を思い出すのかもしれない。

 そんなことを想像してしまうのです。

 

引用文献

Benedictus de Spinoza,1677,ETHICA--ORDINE GEOMETRICO DEMONSTRATA--(畠中尚志訳,1951,『エチカ』上・下,岩波書店)

参考文献

アニメージュ編集部「アニメージューースタートゥインクルプリキュア特別増刊号ーー」2020,1(増刊号),徳間書店

上野修,2014,『スピノザ「神学政治論」を読む』,筑摩書房

國分功一郎「100分de名著ーースピノザ『エチカ』」2018,12,NHK出版