プリヲタ法学部生のブログ

プリキュアについて法学、政治学などの観点からの考察をするブログです。時折プリキュアと関係のないことについても書くかもです。

ヒープリに関する意見まとめ


Hatena

 この記事はヒーリングっど♡プリキュアについてのさまざまなな意見について、私の反駁や感想をまとめたものです。

ダルイゼンの責任について

ダルイゼン(ビョーゲンズ)の非難可能性について

 ビョーゲンズが非難に値する存在なのかという問題はヒープリにおいて最も議論が錯綜している問題だと思われます。

 まず私は非難可能性の意義を定義づけたいと思います。

 非難可能性とは刑法における用語であり、犯罪の実行行為を犯した者に犯罪を回避する可能性が残されていたか、すなわち非難できる余地が残されていたかという問題として考えられます。故意過失がなかった、病気などで自分の行動を制御できなかったなど犯罪を回避できない事情が認められた場合は非難可能性は認められません。

 ダルイゼンは少なくともダルイゼンという姿を象ってからは、自分の行為を認識する能力を持ち、自分の行為が引き起こす結果を認識する能力を持っていました。にもかかわらず、人間を含む様々な生物を蝕み、場合によってはその生き方を無理矢理変更せしめ、意思に反して暴れさせました。

 彼はメガパーツの運用などについて自分の損得を考え、自分の利益のため、場合によっては気まぐれから使用の有無を判断しており、「使用しない」という選択を行い、かかる選択に則ってメガパーツの使用を回避する行動をとることは十分可能であったと考えられます。キングビョーゲンに操られていたなど、ダルイゼンの選択を自分の意思とみなすべきでないと考えるべき特段の事情も存在しない以上ダルイゼンの非難可能性は十分基礎づけられると考えられます。

 とはいえのどかを宿主としていた時期についてはダルイゼンが自我を形成していたかはっきりせず評価することはできません。

ダルイゼンの行動の緊急避難性

 もっとも、「ダルイゼンの行動は彼が生きるための行動でありやむを得なかったのだ」という主張も考えられます。沈没船から脱出して海に漂流している際に浮き輪に他の生存者が掴みかかり溺れそうになった際は、掴みかかってきた他者を振り下ろしたとしても必ずしも非難し得ないのと同じです。

 たしかに真に「生きるためにやむを得なかった」といえる事情が存在するのであれば、自分の生存を図る権利はあらゆる生物に認められうる以上ダルイゼンの行動はやむを得ない緊急避難といえるかもしれません。

 しかし緊急避難は必然的に他者への加害を含むものである以上、「他に方法がなかった」といえなければなりません。

 ダルイゼンは少なくともビョーゲンキングダムで十分生活できていたのであり、生存のためにわざわざ地球を蝕まなければならない必要性を基礎づける描写は私の記憶する限り存在しませんでした。

 そうするとダルイゼンの行動一般について緊急避難性を認めるのは無理があります。もっとも42話については一定の議論の余地があるとは思われます。彼はまさにキングビョーゲンによって生命の危機に晒されていたからです。のどかを宿主とすればダルイゼンの生命が維持されたのかは仮定の問題でありはっきりしません。しかし客観的に考えてほかに有効な方法があったとは考え難く、42話ののどかを蝕もうとした行動については緊急避難性は認められそうです。この行動に限ってはダルイゼンの責任は否定されうると思います。

ダルイゼンのアイデンティティに関する特殊事情について

 ダルイゼンは人間とは異なるビョーゲンズであるという特殊事情が存在します。このことは2つの正反対の方向に議論を左右します。

 まずはビョーゲンズとはすなわち病原菌なのであるから、一切容赦はしてはならない存在であるという立論です。これは一見正論であるかのように思われますが、論理の飛躍を含むと思われます。

 たしかに病原菌は人間を蝕む存在なので基本的には人間にとっては相容れない存在です。そしてそもそも人間ではないのですから、今まで長々と語ってきた責任論を云々するまでもなく人間にはそれを駆除する権利があるでしょう。しかし当然の話ですが権利は直ちに義務を基礎づけるものではないのですから、人間には病原菌を拒絶する義務があるとするのは論理の飛躍です。

 かかる見解に対しては、「そうであっても今年のプリキュアは医者なのだから、病原菌を駆除する義務を負うのだ。」という反論がありえるでしょう。しかし医者が患者に対して負う義務は病気を治すことであって、病原菌を駆除するのはその手段に過ぎません。

 むしろ病気を予防治療するために病原菌を生かして、あまつさえ人間に注入することだってありえるのです。

 一方で病原菌であることから彼の免責を要求する議論もありえます。すなわち彼は病原菌である以上、蝕む行為は生命活動の過程で常識として行われてきた行為であって、なんら教育・更生の機会すら与えずこれに関する責任を負わせるのは酷だという議論です。

 しかし教育・更生の機会の存否と責任論は全く別の問題です。

 責任問題とはつまるところある行為の結果を誰が引き受けるかという問題です。言い換えればある特定の行動から生じた負の結果を誰に帰属させれば、最も理不尽を回避でき、より多くの人の不幸が回避できるかという問題です。

 ダルイゼンの行為から生じる負の影響をダルイゼンに帰属せしめなければ、ダルイゼンの行動についてなんら責められるべき理由のないのどかやプリキュア達、人間たち、生き物たちが泣き寝入りしなければならないことになります。これは明らかに不合理です。そうすると不幸を最小化するためにはダルイゼンの行動のツケは結局ダルイゼン自身が支払わなければならないという結論が責任の所在という議論の趣旨からはもっとも妥当な結論であると言わざるを得ません。

 一方、更生の機会の議論は「与えられるべき教育を与えられないという加害行為があったのではないか」という議論であり、被害者の立場に置かれるのはダルイゼンの方であり加害者の立場に置かれるのはダルイゼンが属する社会一般ということになります。

 つまり責任論と教育・更生の機会の存否の議論は、強い関連性を有するとはいえ、全く別の加害行為についての議論なのであり、混同されるべきものではありません。

 そもそも十分な思考能力を有するダルイゼンに対して病原菌であることの一事をもって無条件に責任を負わせ、あるいは無条件に免責すべきであるといった議論はそれこそダルイゼンの自主性を尊重しない議論であり、ひいてはダルイゼンの生を尊重しない議論であると考えます。

プリキュアの行動について

のどかはダルイゼンを救うべきだったのか

 先述したように42話におけるダルイゼンの懇願には緊急避難性が認められ、あの行動に限ってはダルイゼンに責任はないと考えます。

とはいえ、本質的にその行動はのどかへの加害を伴う以上、のどかにそれを甘受しなければならない義務はありません。そしてそのことと、のどかが過去にダルイゼンに蝕まれていた事実は本質的には関係がありません。のどかが過去に病気を経験していようがいまいが、のどかにはダルイゼンを拒絶する権利があります。

 のどかがダルイゼンに蝕まれていたことは、のどかが自己の選択をするにあたっての考慮要素になったに過ぎません。

「のどかにダルイゼンを拒絶する権利を与えたのは、むしろ病気の患者を不当に特別視するもので差別だ」と主張する方がいましたが、自己の健康を保全する権利はまさに基本的人権の中核をなす権利であって、のどかを当然の権利を行使したに過ぎず、何ら特権を与えられたわけではありません。

 ここまで過激な主張でなくても、「のどかにはダルイゼンを思いやってほしかった」という主張が散見されましたが、のどかにとってみれば今まさに再び自分の健康が侵されようとしている瀬戸際に置かれているのであって、そのような要求ないし願望はのどかの当然の権利を不当に制約するものに思えてなりません。

 とはいえ42話の行動に限ってはダルイゼンに責任がないのは事実です。しかし物語を全体として俯瞰して見るとダルイゼンはまさにあの瞬間今まで果たしてこなかった責任に襲われてしまったといえると思います。ダルイゼンがあのような形でしか責任を果たせなかったことは悲劇であると思います。しかしこれはダルイゼン自身の行動の帰結と考えるべきで、のどかの決断はその帰結の一部を構成するものに過ぎません。

アスミとのどかの行動に倫理的矛盾はあったか

 のどかはダルイゼンを拒絶したにもかかわらず、アスミが危険を犯してシンドイーネを吸収したことを捉えて「自分の身体を大切にすべきとするテーマと矛盾している」とする意見があります。この意見は「自分の身体を大切にすべき」というテーマを誤解したものであると考えます。

 のどかの行動によって提示された「自分の身体を大切にすべき」という価値観は言い換えれば「自分の身体は自分のものなのだから、自分で考え、自分の幸せのために利用する権利がある」というものです。

 のどかがダルイゼンを拒絶したのは先述したように自分の健康を保全すること、それに加えて自身の健康を度外視するダルイゼンへの拒絶でありました。

 一方、アスミにとっての最大の幸福はラテを始めとする大好きな仲間たちを守ることでした。そしてアスミは熟考を重ねて今までのどか達から教えてもらった感情に基づいて、自分自身が健康であること以上に世界を守ることに幸福を見出したのです。

 まさに最も一緒にいた地球人が泣いてアスミを止めてくれるのどかだったからこそ、アスミはあのような決断に至ったのだと思われます。そうするとのどかとアスミの決断を分けた対比としてのどかとダルイゼンの姿勢の違いが対比できるのではないでしょうか。

いずれにせよヒープリに通底する「自分を大切にすること」という価値観は「自分の身体は自分自身の幸福のために利用すべき」であるという点に尽きると思います。

なおこの価値観は2話や8話など、かなり早い段階から示されていたと思います。

 

ヒープリ全体の価値観について

ヒープリは戦うことを要求しているのか
 ヒーリングっどプリキュアは「生きることは戦うこと」という結論を導き出しました。これは「戦わない者には生きてはならない」ことを意味するのでしょうか。

 プリキュアのメッセージをこのように捉え批判されている方も散見されましたが、私はこれを否であると解します。

 のどかがこの結論に達した時、その根拠となったのはのどかが見てきたちゆ、ひなた、アスミの生きる姿でした。そしてのどか自身もまさに生きるために戦ってきた一人です。のどかは親友達の体験と自己の体験、それ以外にも両親やすこやか町の人たち、そしてラビリンを始めとするヒーリングアニマル達の姿を観察した結果、帰納法的にこの結論に達したと考えられます。

 つまりのどかの「生きることは戦うこと」という主張は純粋に事実命題あって、生きとし生ける者は既に戦ってるという前提を確認したものにすぎません。

 個人が自覚するかどうかは別として、生きてる時点で既に自己の生を脅かすナニかと戦っているのであってそこに価値判断は含まれないと解されます。

 ヒープリが価値判断を行うのはどう戦うかという問題であって、戦うことそのものは当然の前提に過ぎないと解されます。

ヒーリングガーデンについて

 最終回に「人間こそが浄化されるべき」というサルローの登場やテアティーヌの発言によってヒーリングアニマルが人間を一方的に裁く存在であると考えられている方が見受けられました。

 しかしそうであればヒーリングアニマルはもっと生物から超越した存在でなければならないはずです。少なくとも地球はビョーゲンズごときを単体で破れないような弱い力をヒーリングアニマルに与えたとは思いません。

 また今作において地球は沈黙し何も語っていません。「地球さんのお加減」はプリキュアやヒーリングアニマル達がいわば手前勝手に考えていたものに過ぎないのです。したがってヒーリングアニマルが地球の意思を代表していると考えられる証拠は何も無いのです。

 そして何よりヒーリングガーデンが地球の意思で動いているのであればヒーリングアニマル達に意見の多様性は見られないはずです。テアティーヌの存在すら不要でしょう。地球そのものを王にすればいいのですから。

 なにより私は地球のようなあまりに巨大な存在が特定の生物を特別な地位に置かせるような意識を持っているとは思えないのです。私達人間の身体にも無数の微生物がいますが、その特定の種族を特別視するような人などいないのと同様です。

 私はヒーリングガーデンに住むヒーリングアニマル達は私たちと同じように地球の生態系を構成する対等な仲間であると考えます。そして同じ種族であっても多様な個性を持つ個体が存在するようにヒーリングアニマルであることが直ちに人間に対して統一された感情を有する存在であるとは考えません。

いわば一人一人が地球の中で精一杯に生きている仲間なのです。その過程の中でお互いによりよい生を送るためにはどうすればいいのか。つまりどのように自分の生を脅かす存在と戦うべきなのか。

ビョーゲンズのように自身のことだけを考えていたのでは、結局自らが誰かにとっての生を脅かす存在となり身を滅ぼすことになるでしょう。このことはヒーリングアニマル達も例外ではないはずです。そうではなく可能な限り相手の生を尊重し、相手と心を通わせながら、より良く生きる方法を模索していくのがヒープリで示された生のあり方なのではないでしょうか。

 このこともまた当為命題ではなく事実命題として示されているように思われます。

ヒープリは先輩プリキュアたちの姿勢と根本から異なるのか

 ヒープリを支持する方々からも反対する方々からもヒープリの姿勢は今までのプリキュアの姿勢を覆すものであるという指摘がなされました。

 そもそもプリキュアの思想がシリーズによって異なるのは当然のことであり、価値観の相違は今までにも見受けられました。

 しかし無印でキュアホワイトが語った次のセリフは全てのシリーズに通じると思います。

「そうよ。自由よ。私達は自由なのよ。たとえどんな状況にあっても、私達の心の中までは誰も手出し出来ない。私達の心の中の宇宙は、誰からも自由だわ!」

オールスターズメモリーズでなぎさが語ったようにプリキュアはただの中学2年生に過ぎません。そんな彼女たちが一般人と異なる唯一の点はなにか、それは自らの幸福に最適な道をいついかなる状況にあっても見つけ出し、掴み取る力があるか否かではないでしょうか。

私たちは時に自分の幸福に無頓着になりがちです。特に大人になればなるほど、自分にとっての幸福を正しく把握できず、結果として自らを貶める道に突き進み悲しみに暮れることも多いのではないでしょうか。プリキュア達はそんな我々に自分の幸福にどこまでも真摯な姿勢示すことで希望を与えてきてくれました。ヒーリングっど♡プリキュアはあえてこの厳しい世界の理を可能な限り崩すことなく、自分の身体というもっとも基本的な幸福の源泉を題材に、幸福に向き合う姿勢を示してくれました。

 コロナ禍はもちろん、様々な悲惨な社会問題が山積し、自分の身体を蔑ろにすることが当たり前のことにさえなっている現代社会において、ヒーリング♡プリキュアは厳しいながらも誠実な希望を与えてくれる作品だったと思います。