プリヲタ法学部生のブログ

プリキュアについて法学、政治学などの観点からの考察をするブログです。時折プリキュアと関係のないことについても書くかもです。

偶然見た演劇のこと-the children-


Hatena

 ここのところずっと勉強に追われている。規則正しい生活を送ろうという試みはとうに破綻し、睡眠時間は日によってバラバラだ(意地でご飯だけは自炊を続けているが)。

 今日は夕飯を終え、刑法をやっつけた後眠くなったので仮眠をとることにした。ちょうど22:00くらいだ。例によって変てこりんな夢を見て目を覚ました。ちょうど午前2時くらいだった。TVはどこも放送休止状態、ボーっとした頭でザッピングしているとたまたま演劇の番組に行き着いた。BSプレミアムのプレミアムシアター、the childrenという演劇を上演していた。高畑淳子、鶴見辰吾、若村麻由美が年老いた原子物理学者を演じる。津波で建屋が爆発してしまった発電所で働いていた学者達である。

 原発関連の物語ということで身構える人もいるかもしれないが、これはそういう政治的アジテーションを主眼とした演劇ではない。これは3人の老学者(それも自分たちはまだ若いと思いこむことで何とか自我を保とうとするかなりめんどくさいタイプの老人達)のごくごく個人的な愛と倫理の物語なのだ。しかし、極めて個人的な生の感情を題材にしているからこそ、つまらない政治的アジテーションよりよっぽど我々に訴えかける普遍性を持っているのだ。

 ヘンゼル、ローズ、ロビン、彼らは若いころ互いに尊敬し、愛し、憎しみあっていた。全員が自分に正直に生きていた。ヘンゼルは自分の得ようとするものを全て得ようとし、冷徹なまでにそれを完遂してきた。そして得たものは決して逃すまいと情熱的に愛した。

 ローズは自分の得られないものを渇望し、そしてついにそれが得られないとわかったとき、全てを得た(と思っていた)ヘンゼルをひいては自分を壊そうとしながら生きてきた。

 ロビンは意図的に考えることをやめていた。あえて短絡的に場当たり的に振る舞うことで幸福を維持しようとした。不幸や罪悪も見えなければ苦しみを与えないからだ。

 こういう話はよくある都合よく醜悪な部分を忘れることによって作られる青春物語と同じで、彼らにとって原発はそういう存在だった。いわばよくあるメロドラマで出てくる学校みたいなものだ。しかし、原発事故によってその虚像がもろくも崩れ去った時、彼らは抗いようのない力によって己の最も触れたくなかった醜悪な部分を直視させられた。自分の青春の後始末をつけることが、子どもたちひいては未来の世代に対する倫理と一致してしまったのだ。こうして彼らは普通の人なら封印できる生の青春に顔をつっこまざるを得なくなる。

 結果、彼らは直面することになる。

 ヘンゼルは自分が切り捨ててきたもの、いわば彼女の理想を破壊しようとする者の怨嗟の声に耐えることができなくなる。それは彼女が30余年心に作った堤防でせき止めてきたものだが、まさに津波のごとく押し寄せヘンゼルのそれらを容赦なく蹂躙している。彼女がこの苦しみから逃れるためには堤防の残骸から自ら抜け出て、自分が大切にしてきたものを全て犠牲にしながら、それと格闘していくしかないのだ。

 ローズはこの3人の中で最も自らの内なる声に忠実な人だ。考える前に体が動いているタイプの人間だ。それゆえに彼女の行動はいつも彼女の幸福に誠実なのだ。その内なる声は彼女に命令するのだ。「お前が得られなかった愛を得ている者たちの愛を犠牲にしろ。」と。それはかつて封印した2度と見たくない自分だった。そういう自分と縁を切ったまま不幸な自分を受け入れて死んでいくはずだった。けれど、彼女にとっての責任を果たすために、ついに彼女は自らの内にあるパンドラの箱を開けざるを得なくなった。自分を封印することによって仮初の幸福を享受している場合ではなくなった。

 ロビンはその実何も愛せない人だった。愛せないから馬鹿になり、享楽に励むことで自分をごまかし続けていた。男を演じ、夫を演じ、父を演じることで自らの中の空虚さから逃げていた。だが、事ここに至り、心の奥底に封印してきた汚泥が一気に噴出したとき、彼は初めて空虚な自分をそのまま認めることが、残される子どもたちのためになると心から思うことができたのだ。

 人は幸福とは個々人にとっての究極的な幸福であり、幸福を希求しない者は正義を希求せず、したがって良心の呵責や我欲という問題に苦しむこともない。これは自分を認められなかった老人達が、ついに自分を認め、そして死地に向かっていく、そんな物語だと感じた。

 すごいものを見てしまった。おかげで今日も眠れない。